第3章 トレイニング型クラスの実践──事務からジムへ
教員が情報伝達する従来の「講義」ではなく、学生たちが主体的に参加できる「授業」を運営するためにはどのような方法をとればいいか。第1章で述べた通り、「授業は体育」であり、「教室は学生たちのトレイニングの場」であると考えると、行うべきことが明らかになる。すなわち、授業の主人公は教員でなく学生たちであり、授業とは学生たちが主体的、能動的に自らの肉体の一部である頭脳や身体を使って、それを鍛え、思考する時間と捉えるのだ。教員は、そのような学生たちの活動が可能な限り充実したものとなるように工夫をし、思考や作業の素材を提供する。
教室で学生たちは事務を行うのではない。教室はジムなのだ。
まず最初に、すべての科目において、シラバスと第1回の授業の冒頭でそのような趣旨を伝えて授業運営に学生たちの理解を得、主体的な参加を促す。学生たちの意識を変革するにはこのオリエンテイションが極めて重要である。
その際、「出席をカウントしない」ことを以下の理由とともに明言する。出席をカウントすることは欠席をカウントするのと同じだからである。体育の授業で、出席だけして、授業中のアクティヴィティを一切行わない、ということは考えられない。すべての活動に実質的に「参加」することが必須である。
教室でも同じである。すなわち、学生が発言などの形で積極的に参加をし、他の学生との間で相互に影響を与えあうことによって初めてクラスへの貢献をしたことになる。出席しただけで何も活動をしなければ、クラスというコミュニティーへの貢献はゼロであり、それは欠席者とほぼ同等の無貢献状態である。
たとえばサッカーの授業であれば、一人でリフティングの練習をする時間もあるし、二人組、三人組でパスの練習をする時間もある。小さなコートの小編成で練習試合もある。同様に教室でも学生たちが諸種のトレイニングをするが、学生一人一人の活動が周囲の学生に対してポジティブな影響を与えるようにすることが大切だ。そのためにはまず学生たちが単に
「出席」して受動的に「講義を受ける」態度から脱し、能動的に発信し、周囲に働き掛ける意志を持つよう指導することが大切である。
そのために、単なる出席をカウントするのではなく、挙手による自発的「発言」をカウントするのである。発言をカウントすると宣言することによって、学生たちの意識は転換する。出席しただけでは評価されず、発言して初めて評価されるとわかれば、なんとか発言しようという気持ちが芽生えるのだ。それがトレイニング型授業の出発点である。
各回の授業は、まず教室で教員・学生の準備が整ったところで、教員は「では始めましょう」と言ってから黙る。その時点ではまだ学生たちが互いに会話をしている状態だから、授業には入れない。教員が前に立って「始めましょう」と言ったまま、学生たちをニコニコと見回しながら黙っていれば、そのうちに学生たちが気付く。授業が始まるから黙って教員の方に注意を向けよう、という気持ちになるのだ。
教室内が静寂に包まれたら、授業に学生たちが参加できる体制が整った証拠。「こんにちは」と頭を下げて、授業を開始する。一旦、静寂を得ておけば、以後、私語など一切ない。もし授業内容と無関係に話し始める学生がいても、目立つので、周囲の学生から顰蹙を買う。それでも話している場合は、教員が語るのをやめ、黙って当該学生の方を注視していればいい。「静かに」などと口頭で注意をする必要はまったくない。
発言がカウントされ、評価されることの意味を学生たちが理解したら、教員は発言を引き出すように授業を運営する。educationのeduceとは「引き出す」ことである。学生たちが持っているポテンシャルをいかにして引き出すか。教員の働きかけによってうまく引き出せれば、それがeducationである。したがって教員からさまざまな問いかけをすることが授業における本質的な要素なのだ。
そこで教員は授業の進捗に合わせて、さまざまな方向から学生たちに問いかける。ここで重要なことは、予習を前提としないことである。予習を前提として問いかけると、予習していない学生は萎縮する。予習圧力が強いと、予習してこなかったという理由で授業に参加すること自体を躊躇するようになる。それでは本末転倒である。できるだけ学生たちが授業に足を運びたい、参加したい、発言したい、と思うような仕掛けを重層的に用意することが必要だ。したがって予習していないことを前提として問いかけることが肝要である。もし予習している学生がいたら後述のように褒めれば良い。
問いかけに対して学生たちは挙手する。その際、教員の方から学生に一方的に当てて発言を求めることは決してしないことを明確なルールとするのが重要である。教員が学生を当てて発言を求めるのは、自ら発言する意志を持って挙手をしている学生のみにするのだ。挙手していない学生は発言したいと思っておらず、そのような学生に発言を求めても恥をかかせるだけである。それはトレイニング型授業の本旨ではない。あくまでも発言したいという意向を表明している学生のみが発言するように進めることで、すべての学生が安心して授業に参加することができ、教室内の雰囲気も落ち着いて、すべての学生が授業を楽しむことができる。
問いかけには3つの段階がある。第1にもっとも原始的な二者択一の問いである。「Aは第三者に該当すると思うか」のように、「はい」と「いいえ」、「そう思う」と「そう思わない」、「賛同する」と「賛同できない」といった形で答えられる問いだ。その場合、全員に対して問いかけ、どちらかに挙手してもらう。言語表現を必要としないから、学生たちは容易に挙手ができ、ほとんどの学生の参加感を醸成することができる。同時に、どちらかに挙手することが必要だから、必然的に思考することになる。勘でも良い。どちらかに挙手する、という能動的な行動を起こしたことに意味がある。また、周囲の多くの学生が挙手をしている中で自分も挙手するから、不安感も小さく、付和雷同の学生も比較的安心して参加することができる。
第2に選択肢のある問いである。「第三者はAか、Bか、Cか」というように、選択肢があって、いずれかに挙手することで回答する形式の問いである。この場合、選択肢は4つあり、「Aと考える」、「Bと考える」、「Cと考える」、「AもBもCも第三者ではない」という4つの選択肢を提示して、学生に挙手してもらう。またAもBも第三者であると考える学生の場合は、2回挙手することになる。
この問いも、言語表現を求められないから、比較的容易に回答できる。とはいえ、二者択一より数段難しい。
重要なことは、第1の問い方でも第2の問い方でも、挙手をしてもらった後に、その理由を問うことである。ほぼすべての学生が挙手したあとであるが、その理由を述べることができる学生は数少ない。しかし、一旦、二択あるいは複数択から選んで挙手する段階を経ることで、理由付けが明確になってくる学生も少なからずいる。したがって「理由を述べられる人、いますか?」と問いかけることで、自分が挙手した選択肢を選んだ理由や根拠を述べられる学生が現れるのだ。一人が理由を述べると、それとは異なる意見を持った学生が発言したくなるものである。そうなれば次々と複数の見解が出てくる。教員と複数の学生が時間と空間を共有して、ともに授業に貢献しあう効用である。
第3にオープンクエスチョン。自由に見解を述べる形式の問いかけである。内容によっては相当高度であるから、問いかけても発言がひとつも出ない場合も往々にしてある。その時は、選択肢式の問いに変更することで、学生たちの参加感を保つ。またこの形式の問いであってもたとえば「著作権と聞いてイメージするものといえば?」といった問いだと、簡単に数十の解が出てくる。学生たちの興味関心にしたがって問い方を工夫すれば、発言を促すのは難しくない。むしろ、問いかけても発言が出ない場合は、問い方が悪かったと割り切って、別の問いを繰り出すのが良策である。
活発に発言して欲しいと願うのであれば、学生の発言を聞いたときの教員の反応が極めて重要である。教員の反応がその後の全学生の発言を左右するのだ。大切なことは、どんな発言でも褒めることである。絶対に否定したり、間違っているとは言わない。学生の発言に対して、即座に「なるほど!」「面白い!」「いいアイディアだね!」「すばらしい!」といった肯定的な反応を返す。学生は自分の発言が教員に受け入れられたと感じて安心する。発言して良かった、いいことを言えたという満足感も得て、また次回も発言しようという気持ちを起こさせる。
同時に、それを聞いている他の学生たちは、「あのような発言でも受け入れられるのだ」という安心感を共有し、自分も発言してみようか、という気持ちにつながる。また、他の学生がどのようなことを考えているのかを知ることができ、自分とは異なる意見が多様に存在することに気付く。それらと異なる自分の意見も言ってみたい、という気になっていく。
仮に、本当に間違った意見を言った学生がいた場合、「なるほど、面白い」などと言ってまずは発言をしたこと自体を肯定し、受け止める。そのうえでその発言と矛盾する可能性のある例を提示し、「こういう場合どうなるか考えてみてね」といって別の学生の発言を促す。当該発言をした学生は、教員が提示した例が自分の発言内容と矛盾することに気付くことで、自分の発言内容が不十分だったことを知る。また周囲の学生も同様に矛盾に気付く。このようにすれば、発言の時点で「それはおかしい」とか「間違っている」と明示的に指摘することで学生に恥をかかせてしまう事態を回避できる。
学生の発言をどのようにカウントするか。いちいち教員の名簿に記録などしていては、授業のテンポを阻害する。そこで発言回数は学生自身にカウントして申告してもらう。毎回、授業の最後に学生たちが提出する「オピニオンペーパー」(後述)の最上部に、その日の発言回数と前回までの発言回数、そして両者の合計を記載してもらうのだ。
教員はそのオピニオンペーパーをすべてスキャンして保存し、次回の授業で返却する。スキャンして保存していることを学生たちに伝えてあるし、不正が発覚したら「F評価(不合格)」にするというルールにしているので、不正な回数を書く学生はいないはずである。
発言回数は直接、成績評価の基礎となる点数として加算する。筆者の場合、現在、論述式の期末試験50%、発言回数50%の割合で成績をつけている。その旨、シラバスに明記し、また第1回の授業のオリエンテイションその他で学生たちに周知している。
発言は挙手制だが、複数の学生が挙手した場合は早い者から当てる。しかし、学生たちが慣れてくると、教員が問いかけた瞬間、ほぼ同時に複数の学生が挙手して競合することがたびたび起きる。その場合は、前の席ほど優先して発言権があるというルールにしている。その結果、講義開始5分前には、教室の前から5列はすでに学生で埋まっている、という状況が生じるほど学生の参加意欲が強まる。
発言回数をカウントし、前列ほど発言権が強い、というルールにすることで、学生たちの授業参加へのモチベイションにまで好影響を与えるのだ。仕組みで意欲を喚起することができる。
そのようにルールによって発言を促進すると同時に、実質的にも発言を促す方策を講じている。それは、「法律問題に対する解は無限にある」、「法律問題に対する唯一絶対の解は存在しない」という大前提を最初に学生たちに伝えることである。
高校を卒業して大学に入学してきた学生たちは、法律に最も近い身近な存在として高校までの「校則」を想起する。服装規定や行動規範など、やってはいけないことが列挙されて窮屈な経験をしているのだ。同時に、高校あるいは大学入試までに彼らが遭遇する各種の「問題」はほとんどの場合、「答えがひとつ」という世界である。唯一存在する正解にたどり着くことが絶対的な命題として18年間、すり込まれてきたのだ。
しかし、法律問題の解は複数ある。人の数だけ無限に存在すると言ってもいい。大学受験までの間、「正解はひとつ」という世界に浸りきった学生たちにとって、「正解の呪縛」は強固であり、解が複数ある、無限にある、といってもなかなか実感が湧かない。
そこで、いろいろな例を出すことによって、そのことを理解してもらうことが大切だ。その好例が、裁判の三審制である。ひとつの法律問題に対して裁判は何回できるか、を問う。各学生たちが断片的な知識を発言しあうことによって、地裁、高裁、最高裁といった三審制について情報がクラスに提供される。各裁判ではそれぞれ法律のプロである複数の裁判官が合議して判決を下しているが、はたして3度の判決は同じかと言うと、3回それぞれ異なる判決であったり、結論は同じでも論理構成が異なったりするのが普通である、ということを伝える。
法律のプロである裁判官でさえ、裁判所によって異なる判決を下すのだから、学生たちの解により多様なバラエティーがあっていいのだということを、学生たちが具体的に認識することになる。法律問題に正解はない、あるいは社会に生起する各種の問題に唯一絶対の正解などない、ということを知るのである。正解がある問題は問題ですらなく、単なるクイズであると。
その他たとえば、ひとりの弁護士は、原告側の代理人になる場合と被告側の代理人になる場合とで、真反対の法的立論を必要とする、ということを伝える。またテレビの法律番組で複数の弁護士が異なる見解を提示する、という例を挙げる。
「絶対的な正解がない」、「解は複数ある」、「解の可能性は無限にある」、ということがわかると、「正解の呪縛」から解放され、徐々に躊躇なく「自分の解」を形成し、述べることができるようになっていく。それこそ法学教育の目指すところである。
このような前提とともに、学生の各発言を毎回褒める、という経験が重なって、学生たちは安心して発言できるようになる。その発言内容は多岐にわたり、教員が想定していなかったような優れた発言もあるし、また一方で、本質を突いたスマートな発言がなされることもある。その場合は、他の発言よりも十分に褒め、なぜそれがすばらしいかも説明する。学生たちは美しいシュートを決めたときのような爽快感を味わっているに違いない。
教員からの問いに対して、このように発言で解答をする他、記述式で解答するものもある。「○○について記述してみてね」とか「○○と××との関係を図にするとどんなふうになるか描いてみて」といった具合だ。
その場合、数百人が履修して参加している教室で全員分を解答を教員が確認することは事実上不可能。そこで、学生同士、相互に評価してもらう。問いの内容如何によって2人組ないし5人組を座席の周囲で作ってもらい、ノートに描いた図とか文章を相互に確認しあうのだ。当然、各学生ごとに描いている内容が異なるから、議論が生じる。その後の授業の展開の仕方によっては、どのような点で相違があったかなどを全体に対して発言してもらうこともある。
期末試験の問題案を学生から募集することを、第1回のオリエンテイションで明言するのも科目によっては効果的である。筆者の場合、「著作権法」の講義ではそれを行っている(「民法」では行っていない)。
全15回からなる授業の最終回まで終わった日の23:59を締切りとして、期末試験の問題案を学生から募集する。それを初回の授業で伝えることで、毎回の授業への参加が同時に「期末試験の問題案探し」となる。問題案が100以上集まったら、すべてをWeb上に公開して、期末試験はその中から出題する。学生たちは問題案の公開を望むから、できるだけたくさん、案を出そうとする。いきおい、授業中に「いい問題」を発見しようとして参加意欲がわく。
問題のクオリティーを確保するための方策として、期末試験には「いい問題」を採用し、採用された人には平常点を「10点」プラスする、と伝えている。ここで「いい問題」とはどういう問題かを学生にあらかじめ明らかにしておくことが重要だ。すなわち前述のとおり、法律問題には解が無限にあるから、「10人が回答したら10とおりの回答が出る」のが「いい問題」であると定義するのだ。もし100人が回答して正解1つに収斂するのであれば、それは「問題」ですらなく「クイズ」である。その逆の方向、つまり解答が多岐に発散する問題ほど「いい問題」であると伝えるのである。
このように、期末試験問題を募集すると最初に明言することも、学生たちの参加意欲を醸成する方途のひとつである。仕組みで参加を喚起するのである。
授業が2回目以降の場合は、まず最初に前回のレビューから始める。「前回、何やりましたか?」と問うのだ。
すると学生たちの発言によって、前回の授業で扱ったトピックが散発的に出てくる。それによって学生たちは記憶を呼び覚まし、今回の授業に対する前回からの継続性を確保できる。また、全員が共有しているはずの前回の内容であるから、誰でも発言可能な問いであるため、簡単に発言することもでき、発言マインドへのエンジンもかかる。トレイニングへのウォーミングアップだ。
そして何より、前回の内容を全員が復習することになる。その過程で必要があれば教員は、補足的な説明を行うことができるし、学生たちの理解の深度を確認することにもなる。そのうえで今回の授業内容に入っていくとスムーズだ。
法律的素養の涵養においてその屋台骨となるのは、条文を読めるようになることである。普段、学生たちは条文を読む機会など皆無だし、そもそも読んだ経験のない条文を自分で読みこなせるはずがない。したがってその読み方は法学の授業で教えるべき最重要項目であることは間違いない。
そこで授業の過程で出てくる条文は、必ず授業中に読む。学生全員、教員とともに声を出して音読する。音読は効果的である。難読字とか読み方を間違えやすい漢字を正しく認識することもできる。
次に、条文をノートに書き写す。全員、その場でノートに書くのだ。漢字も覚えるし、句読点の打ち方などに注意を向けるようになる。書いたら文法的に解析する。どの単語がどの単語を修飾しているか、それらの修飾語を取り去ると条文の文言の核心となっているのはどういう文章か。条文を正確に解釈することができるようになっていく。
その後、その条文に該当する具体例を各自、作ってもらう。できたらその具体例を条文に代入し、図を描く。適切に代入できるか、適切な図が描けているか、教員が全員分を確認することはできないので、各自がノートに具体例、代入、図を記述して、周囲の学生と交互に確認してもらうのだ。
そのあとで、具体例などを全体に出してもらい、検討を加える。これらを繰り返すことで、学生たちは徐々に高度な条文を読む力を身に付けていく。逆に、学生たちの反応を見る限り、このような過程を丁寧に経ない限り、条文を読めるようにはならないだろうと思われる。
最後にオピニオンペーパーである。毎回、授業の最後に学生たちが記述して提出する書面をこう呼んでいる。
その目的は3つ。第1に、前述のとおり、その日の発言回数とその日までの発言回数のトータルを申告するためである。
第2に、毎回授業の最後に教員が出す「クエスチョン」の解答を記述する。クエスチョンは、その日に扱ったトピックの簡単な応用問題とか、次回の授業につながる導入になる命題などである。
第3に、教員に対するメッセージである。内容はなんでも良い。疑問、質問、意見、提案などはもとより、その日の授業内容を4コマ漫画にする学生もいるし、詩とか心理学のトピックを書いてくる学生もいる。
教員は、すべてに目を通し、メッセージに関してはコメントを書き込む。すべてのオピニオンペーパーはスキャンして保存した上、コメントやサインを記載して、次週に学生に返却する。
返却は教室のテーブルに並べておき、学生たちが自分で見つけて取っていく。ひとりひとり名前を呼んで返却したいところだが、数百人に対してそれをするほどの時間的余裕は残念ながらない。
次回の冒頭には2つのことを行う。まず第1に、オピニオンペーパーに書かれていた質問に対して、全員の前で解説する。一人から質問が出たということはより多くの学生が疑問に持っていることが予想されるから、当該学生のみでなく全員に対して解説するのである。第2に、前回出したクエスチョンの解説である。前述のとおり、クエスチョンの内容が次回の内容の導入になっている場合が多いから、その解説をすることによって次回の授業につなげていくのだ。
あとは前述の通り、前回の内容についてレビューをしてから授業に入る。その頃にはすでに授業開始から20~30分経過しているから、学生は一旦息抜きして新たに授業内容に入ることができ、その継続時間も1コマより短いから、学生たちの集中力が途切れずに続けやすいのである。
以上のように、ITなど使わなくても、授業を学生主体にすることができる。学生たちは、繰り返し問われる問いに対して思考を促され、口を使って条文を読んだり、手を動かして作文や作図をするという作業が続く。周囲の学生と異なる見解を持って議論する時間もある。私語を楽しんだり寝たりする暇はない。1コマの90分、あるいは2コマ連続の180分があっという間に経過するのである。
これに加えてITを使うと、さらに授業を効果的に進めることができ得る。次章で検討しよう。